2005年10月29日
今こそ必要な右翼論客 野村秋介
先日、自殺した見沢知廉は、獄中12年だったが、ベルサーチのスーツが似合う [野村秋介]:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9D%91%E7%A7%8B%E4%BB%8B は、獄中18年。
今年は、野村さんの13回忌だ。
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今年は、野村さんの13回忌だ。
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2005年09月14日
2005年07月28日
2005年07月26日
【岡部伊都子】婚約者を戦地に喜んで送り出した?加害の女?として
岡部伊都子さんは1923(大正12)年、大阪生まれ。1954年から文筆活動に入った。
そのきっかけとなったのは、沖縄で戦闘中に自決した婚約者の存在だった。出征の前夜、「天皇陛下のために死ぬのはいやだ」と言った婚約者の言葉を理解できず、彼女は「私なら喜んで死ぬ」と戦地へ送り出した。
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そのきっかけとなったのは、沖縄で戦闘中に自決した婚約者の存在だった。出征の前夜、「天皇陛下のために死ぬのはいやだ」と言った婚約者の言葉を理解できず、彼女は「私なら喜んで死ぬ」と戦地へ送り出した。
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2005年06月18日
2005年05月23日
2005年05月20日
2005年03月19日
『演歌は大嫌い』反骨の女(ひと)淡谷のり子

『演歌は大嫌い』ってのは淡谷さんの有名な言葉。裕福な家庭に生まれながらも、すぐにどん底の生活を嫌というほど味わった淡谷さんにとって、演歌というより、ジメジメした陰鬱なものが嫌いだったようだ。
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2005年01月24日
『一銭五厘の旗』 花森安治

『暮しの手帖』という婦人雑誌がある。たぶん、いま一番売れていない婦人雑誌のひとつかもしれない。
しかし、この雑誌はすごい雑誌だ。創刊は1948(昭和23)年9月20日。すでに57年間も続いている月刊誌(当初は季刊)だ。そして広告は一切ない。それは、広告を載せることで、書きたいことが書けなくなることを嫌ったからだ。写真の寸法をミリ単位でレイアウトしていたので、不細工な広告に台無しにされたくなかったからだ。
商品テストで大事なことは、どこの『ヒモつき』にもならないことだ。それで、広告のない『暮しの手帖』は、日本初の商品テストを目玉記事とした雑誌となった。それは1954(昭和29)年からずっと続いている!日本の家電が素晴らしいものとなったのは、『暮しの手帖』のおかげだ。
この雑誌の名物編集長が花森安治である。
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2004年10月18日
治安維持法の犠牲者 天才反戦詩人『槙村浩』

偶然ゲオで借りたビデオ [『人間の骨』]:http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD18879/index.html で、高知出身の反戦詩人『槙村浩』(本名 吉田豊道)を知った。
どえらい人ですよ。1912年高知市生まれ。幼少の頃、神童と云われ、10才のとき久邇宮朝融王(昭和天皇の義兄)が高知に来た際、御前講義をした。
久邇宮より「アレキサンダーについて述べよ」ときかれると
「アレキサンダーといっても何人もいる、どのアレキサンダーか」と聞き返したと言う!また文部次官から「何か書け」といわれ即座に「支那論」を書いた。
英才教育で知られた土佐中学、リベラルな校風をもった岡山市の関西中学などに学び、31年、19歳で日本プロレタリア作家同盟高知支部の結成に参加、おもに高知県で活動。
文学活動とともに日本共産青年同盟に加盟、高知市にあった歩兵44連隊で反戦ビラをまくなどの活動をしながら、「生ける銃架」(31年)、「出征」「間島(かんとう)パルチザンの歌」(32年)など、朝鮮民族との連帯を詩い、今日でも高く評価されている反戦詩を次々に発表する。しかし、2度も特攻警察に逮捕され拷問、獄中で病気となり26歳で精神病院で死去。その、知性と溢れる才能は、思想弾圧に抹殺された。
彼の代表作『間島パルチザンの歌』は、1919年3月1日、朝鮮半島で起きた抗日独立運動である「3・1独立運動」(日本軍により8千人が虐殺された)を詠っている。
日本政府は1932年、「3・1独立運動」と同じ日に「満州国建国」を宣言。槙村はこれに抗議し、『間島パルチザンの歌』を詠んだ…。槙村が二十歳のときである。
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2004年10月15日
『新しいものは常に謀叛である』 徳富蘆花

明治天皇を暗殺しようと考えた、幸徳秋水ほか25名の無政府主義者が逮捕され、幸徳を始めとする12名が処刑された [大逆事件]:http://www.ocv.ne.jp/~kameda/miyashita.html 。「国家による虐殺」は明治の文化人に衝撃を与えた。
小説 [『不如帰』]:http://www.sosui.net/hototogisu/hototogisuindex.htm で有名な徳富蘆花もその一人である。彼は、公然と政府批判を展開する。事件の約一週間後に第一高等学校で行われた講演の中で、「大逆事件の審判中當路の大臣は一人も唯の一度も傍聽に來なかったのであるー死の判決で國民を嚇(おど)して、十二名の恩赦で一寸機嫌を取って、餘の十二名は殆ど不意打の死刑ー否死刑ではない、暗殺ー暗殺である。」(謀叛論)と、政府を徹底的に非難した。以下はその抜粋である。
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明治四十四年二月一日 第一高等學校に於る講演草稿より。
諸君、幸徳君等は時の政府に謀叛人と見做されて殺された。が、謀叛を恐れてはならぬ。謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀叛である。「身を殺して魂を殺す能はざる者を恐るゝ勿れ」肉體の死は何でも無い。恐るべきは靈魂の死である。人が教へられたる信條のまゝに執着し、言はせらるゝ如く言ひ、爲(さ)せらるゝ如くふるまひ、型から鑄出(いだ)した人形の如く形式的に生活の安を偸(ぬす)んで、一切の自立自信、自化自發を失ふ時、即ち是れ靈魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きる爲に謀叛しなければならぬ。古人は云ふた如何なる眞理にも停滯するな、停滯すれば墓となると。人生は解脱の連續である。如何に愛着する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式殘って生する所のものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。其は形式殘って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」墓は常に後にしなければならぬ。幸徳等は政治上に謀叛して死んだ。死んで最早復活した。墓は空虚だ。何時迄も墓に縋りついてはならぬ。「若(もし)爾の右眼爾を礙(つまづ)かさば抽出(ぬきだ)して之をすてよ」愛別、離苦、打ち克たねばならぬ。我等は苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。 *繰り返して曰ふ、諸君、我等は生きねばならぬ。生きる爲に常に謀叛しなければならぬ。自己に對して、また周圍に對して。*
2004年10月11日
『おんな組 いのち』
辛淑玉さんの講演で彼女が話していた、 [『おんな組 いのち』]:http://onnagumi.jp/ のHPがやっと立ち上がったようです。そこに載っている「おんな組いのち 志」がすばらしい。
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●[おんな組いのち]志●
私たちは今、日本国に住んでいる。
生まれた時から住んでいるものもあれば、途中から住み始めたものもある。
いずれにせよ、ここ、この日本に在る、という点で、
まぎれもなく私たちはかけがえのない仲間だ。
だから私たちは、今、かけがえのない仲間として、
国家を超えて手をつなぐ。
私たちは、「日本国籍が無い」という理由で人々が苦しめられるのを許さない。
日本で生活するものすべてに、人間としての同等な権利と福利を要求する。
また私たちは、「日本国籍がある」という理由で人々が苦しめられるのを許さない。
国民に人殺しを強要するような法律は、人間の名においてぜったい拒否する。
そもそも私たちは、ひとつひとつのいのちを深く慈しむものだ。
だからこそ、いのちをはばみ破壊する暴力を心から恐れ憎む。
しかし私たちは、逃げまわらないと決めた。
妻や恋人や子どもへの男性の暴力を、私たちはやめさせる。
国家による暴力にほかならない戦争と死刑を、私たちはやめさせる。
おんなの名にかけてやめさせる。
それが、この、つないだ手を流れる私たちの志、
私たちのいのちから湧き出た志なのだ。
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おとこも、入組できるようなので、入会します。ちなみに、おすぎとピーコも組員です。
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●[おんな組いのち]志●
私たちは今、日本国に住んでいる。
生まれた時から住んでいるものもあれば、途中から住み始めたものもある。
いずれにせよ、ここ、この日本に在る、という点で、
まぎれもなく私たちはかけがえのない仲間だ。
だから私たちは、今、かけがえのない仲間として、
国家を超えて手をつなぐ。
私たちは、「日本国籍が無い」という理由で人々が苦しめられるのを許さない。
日本で生活するものすべてに、人間としての同等な権利と福利を要求する。
また私たちは、「日本国籍がある」という理由で人々が苦しめられるのを許さない。
国民に人殺しを強要するような法律は、人間の名においてぜったい拒否する。
そもそも私たちは、ひとつひとつのいのちを深く慈しむものだ。
だからこそ、いのちをはばみ破壊する暴力を心から恐れ憎む。
しかし私たちは、逃げまわらないと決めた。
妻や恋人や子どもへの男性の暴力を、私たちはやめさせる。
国家による暴力にほかならない戦争と死刑を、私たちはやめさせる。
おんなの名にかけてやめさせる。
それが、この、つないだ手を流れる私たちの志、
私たちのいのちから湧き出た志なのだ。
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おとこも、入組できるようなので、入会します。ちなみに、おすぎとピーコも組員です。
2004年09月23日
治安維持法と闘った反戦川柳作家、鶴彬(つるあきら)って誰?

【 [1930年鶴彬が収監された衛戌刑務所跡]:http://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/osakajou.htm 】
[石川県高松が生んだ川柳作家 鶴彬]:http://www.machikado.npo-jp.net/tsuruakira.htm 、彼の短い人生は権力との戦いに費やされた。憲兵により拷問されようが、戦時中に反戦川柳を貫きとおした、そのどれもが鮮烈で強烈な作品ばかりである。そのため、権力は彼を転向させようとやっきになったが、その信念はついに暴力に屈しなかった。
1926年(17歳)
・半球の闇を地球は持ち続け
・さやのなき刃いつしか人を切る
1928年(19歳)初めて「鶴彬」の名前で柳詩『氷原』で作品発表。関東軍による張作霖暗殺事件。金融恐慌。
・腕を組む 仲間に鎖 ぶち切れる
・兵隊を つれて坊主が 牢へ来る
・軍神の 像の真下の 失業者
・稼ぎ手を 殺し勲章で だますなり
1930年(21歳)陸軍2等兵として『金沢第7連隊赤化事件』に連座し [陸軍大阪衛戌刑務所]:http://ha4.seikyou.ne.jp/home/jouhoku/heiwa/oj-eiju.html に収監される。
1935年(26歳)東北飢饉身売り続出 共産党事実上壊滅 美濃部達吉「天皇機関説」弾圧
・涸れた乳房から飢饉を吸うてゐる
・凶作の村から村へ娘買ひ
・みな肺で死ぬる女工の募集札
1936年(27歳)2・26事件、阿部定事件
・修身にない孝行で淫売婦
・待合で徹夜議会で眠るなり
・半島の生まれでつぶし値の生き埋めとなる
1937年(28歳)南京大虐殺、大日本帝国に国号統一
・蟻食ひの糞殺された蟻ばかり
・骨壷と売れない貞操を抱へ淫売どりのくるふ歌
・手と足をもいだ丸太にしてかへし
1938年(29歳)鶴彬死去
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[赤旗]:http://www.jcp.or.jp/akahata/index.html より
〈問い〉 先日の学問文化面のコラム「朝の風」に、勾留されたまま死んだ反戦川柳作家・鶴彬のことが書かれていました。どんな人だったのですか?
〈答え〉 「暁を抱いて闇にゐる蕾(つぼみ)」「手と足をもいだ丸太にしてかへし」など数多くの鋭い反戦川柳を詠んだ鶴彬(つる・あきら、1909〜38年)は、石川県高松町生まれで、本名・喜多(きた)一二(かつじ)といいます。
「暴風と海との恋を見ましたか」というロマンチックな句をつくっていた少年が、社会運動のたかまりのなかで成長し、19歳でナップ(全日本無産者芸術連盟)高松支部を結成。反戦句をつくって戦争反対を貫くとともに、21歳で金沢歩兵第七連隊に入営すると、日本共産青年同盟の機関紙『無産青年』をもちこむなど反戦活動をし、治安維持法違反で懲役2年の刑に。
日本が中国に全面的な侵略戦争を始めた37年には、「万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た」「高粱(こうりゃん)の実りへ戦車と靴の鋲(びょう)」「屍(しかばね)のゐないニュース映画で勇ましい」(同年11月発行の川柳誌)などの作品を発表します。その直後にふたたび治安維持法違反で、東京の野方署に留置され、翌年、赤痢に感染、勾留を解かれないまま病院で亡くなります。特高に虐殺された小林多喜二と同じ年の享年29歳でした。
出身地の高松町には「枯れ芝よ!団結をして春を待つ」の句碑が建っており、「鶴彬を顕彰する会」もつくられています。
6年前、『鶴彬全集』を復刻した澤地久枝さんは本紙インタビューに、こう語っています。
「一番最後の句が『胎内の動き知るころ骨がつき』というのもすごいことです。身ごもった赤ちゃんの胎動がわかって生まれてくる日を予告しているというのに、父親は戦死しその遺骨が届く。子は父を失い母は夫を失う。戦争をみごとに突いた句です。…警察は謝れば出すのに、鶴彬は、結局志を曲げなかった。日中戦争が激しくなった38年9月14日に息を引き取った青年は、最後まで反戦の筋を通し死んでいった。ずいぶん痛ましい、しかしみごとな人生だと思います」(喜)
〔2004・9・9(木)〕
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東京の片隅で、鶴彬の葬儀は、肉親だけでひっそりと行われた。
5年前に小林多喜二が虐殺されたとき、通夜や葬儀に集まった人が片端から全員、特高警察に拘引されて取調べを受けたことは、鶴彬の関係者たちも知っている。
そのときよりも軍国主義と強権はいっそう強くなっている。
特高に逮捕されて家族の結婚や就職まで困難となる非国民になる覚悟がないかぎり、鶴彬の葬儀に参列できるものではなかった。
鶴彬のナマ原稿や書簡類は特高によって処分され、それを持っている彼の関係者の多くは特高を恐れて自分で遺棄や焼却をした。
わずかに、渡辺尺蠖《しゃっかく》が、鶴彬からの葉書や封書を大事に隠し持った。短冊や他の書簡も少しは残るが、長く他の物に紛れこんだ。
追悼文を書く人なく、抗議の声を発する人なく、ナマ原稿なし。
それで、消えた。
といえども、鶴彬の一般知名度が多喜二ほどではない理由の、その第1は、鶴彬自身とその作品、評論の過激さにある。
人々が簡単についていけないのである。
それで特高に逮捕されたころには孤塁の人となっていた。
その状況で、鶴彬は骨になった。
故郷、石川県の高松町に、家の墓はない。
鶴彬の遺骨は兄に抱かれ、兄の職場と住居がある岩手県、盛岡へ向かう汽車に乗った。
特高警察がずっとつきまとっていた。
やがて兄は、盛岡の光照寺に墓を建てた。
少年のときに死別した父親の遺骨と、同じころに早世した姉の遺骨と、そして、弟、鶴彬の遺骨をそこに納めた。
親戚を転々として成人した兄が、長男として切なる思いで建てた墓だった。
51歳のときに、この兄もそこへ入った。
そのあとに、再婚していた母親もそこへ入った。
墓所が、父親の死によってバラバラになった家族の静かなる集合地となっていった。
鶴彬の約1000句の作品や、多くの評論は、それが必要とされるときがくるまで眠り、存在「鶴彬」は虚空に霧散した。
作品は求める人のところへ現れ、「鶴彬」は必要とする人のところへ降りてくる。( [ストレート蟻食いを噛み殺したまま死んだ蟻・鶴彬]:http://www.ebookbank.jp/murauchi/ep/item/1-17435/ より)
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2004年08月22日
「反対」 金子光晴

僕は少年の頃
学校に反対だった。
僕は、いままた
働くことに反対だ。
僕は第一、健康とか
正義とかが大きらいなのだ。
健康で正しいほど
人間を無常にするものはない。
むろん、やまと魂は反対だ。
義理人情もへどがでる。
いつの政府にも反対であり、文壇画壇にも尻をむけている。
(中略)
僕は信じる。反対こそ、人生で
唯一つ立派なことだと。
反対こそ、生きてることだ。
反対こそ、じぶんをつかむことだ。
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金子光晴(かねこ・みつはる)
1895〜1975。愛知県生れ。早大英文科予科のほか、東京美術学校、慶大に籍を置き、いずれも中退した。渡欧、帰国ののち詩誌「楽園」を編集。第二次世界大戦後、「コスモス」創刊に参加。戦時下に書き続けた反戦的な詩を公刊し、レジスタンス詩人と称された。『こがね虫』『鮫』『落下傘』その他の詩集がある。
2004年08月14日
「日本内戦」ー大衆の無知と敵意を醸成するものはー辛淑玉の講演より

辛淑玉の講演、はじめて聴いてきた。大爆笑、激しく熱い口調のマシンガン・トークは圧倒的であった。以下、とりとめもなく講演の内容を書き綴ってみる。
彼女はオリンピックを観ないそうだ。日の丸がたくさん出るので不快。気持ち悪いからだ。彼女が、ある過疎の村(一番若い方が58歳)に講演にいったところ、村人の半分が出迎えてくれたのは良かったが、全員が手作りの『日の丸』の旗を振って、出迎えてくれたそうだ。村の人の希望で是非村に泊まってくれというので、村の名士の方の家に泊まったそうな。その方は元警察官で、客間には大正天皇の肖像が飾ってあったそうな。
貧しくて、捨てられた人は国家にすがるしかない。それが、この国の大衆である。
イラクで外務省の役人が殺されたとき、真っ先に彼女はこう思った。東大法学部は現場に行かないんだなと。つまり、外務省で東大法学部出身でない彼等は、汚い大変な仕事をしなければ、認められなかったのだと。これはヤクザと変わらないなと。
山口組の幹部90人のうち、在日は20人、以下、部落、沖縄人、日本人の順で構成されている。虐げれた人間が社会で生き残るためには、まず暴力で身を守る。そして組織のなかで認められるためには、鉄砲玉や汚い仕事を率先してやるしかない。外務省は、これと同じだと。そして、外務省葬が行われたが、誰も、今回の事件で殺されたイラク人運転手のことに言及するものはいなかった。イラク人を殺しておいて、これに涙も流さず、人道復興支援と唱えるとはなんなんだ?
そもそも人道復興支援といっているが、やっていることは水道屋だ。それなら、素人の自衛隊を派遣しないで水道屋を派遣すればよいのだ。
イラク人質事件は酷かった。3人のなかでバッシングが酷かったのが、今井さんと高遠さんの2人。なぜか?要は、「女、子供は引っ込んでろ!」ってことです。オヤジの仕事にでしゃばるなってことです。お前らは「天皇の赤子」であって、辱めを受けたら生きて帰ってくるなってことです。
悪いやつに騙される方も悪い。だまされる奴が悪いのです。この構造を残している限り、大衆は「イラク人質事件」や「アイスター、ハンセン病患者宿泊拒否事件」「拉致家族バッシング」のような加害者になっていく。
この国は弱者が迫害や虐めに耐えて耐え抜いているときは「同情」します。ところが、その弱者が自分の言葉で異論を唱えると、徹底的に叩き潰します。身近な大衆が敵となるのです。異論をもっていても、公の場では表明できない。
京都の鳥インフルエンザ事件で養鶏場の社長はマスコミの追及を受けたが、自殺したとたんに原因追及は終わりました。なにも事件は解決していないのですが?しかも一人で死ねばよいものを、奥さんも道連れにしている。情けない、これが男です。この国の罪の償いは死ぬことで完結してしまう。
弱者の敵は弱者です。
その元凶はコイズミ。いままでの彼の言葉から…。
「何で悪いの?」「どうして悪いの」「僕にはわからないなぁ」
ガキのレベルが首相になっているのです。ネット右翼の糞餓鬼と同じレベルです。そこには知性がない。近代史を知りたくないから、知ろうともしない。彼の無知は強固なものです。たぶん小林よしのりの漫画しか読まないのでしょう。靖国参拝にしたってそう。日本が戦争の加害者だってことを忘れて、被害者である中国に対して「言われる筋合いない」と発言している。ほんとバカです。
このまま日本は知性を忘れて良いのでしょうか?
現在の日本国憲法はただの「ポエム」でしかありません。これほど守られていない法律はありません。あいまいな表記が多すぎて、改正したほうがよいと思います。
1条から3条なんて民主主義とは矛盾しています。
唯一残したいのが、9条です。9条が改正されたときの状況を創造してみてください。経済はかなり活性化するでしょう。しかし、軍事が優先される行政となるので、言論は確実に統制されます。北朝鮮と同じです。組合がコケ、ジャーナリズムは政府に擦り寄り、司法は機能していない状況で、9条を守るには、今までの市民運動の闘い方ではダメです。
中山千夏らと「女組」という運動を立ち上げました。腐った女と言われてもいいと言う男も入会させてあげます。
阪神大震災以降、ボランティア活動は、美しい弱者、主張しない弱者のところに行く市民活動に変わってしまいました。
今はあなたの隣の普通の人に刺される時代です。
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2004年08月08日
厚木航空隊事件 小園安名大佐の抵抗
「米軍の放送は、早朝からさかんにポツダム宣言受諾、帝国の降伏を放送しているが、それは事実なのか」
1945(昭和20)年8月14日、「玉音放送」の前日に、厚木航空司令の小園大佐は、横須賀鎮守府長官戸塚中将の胸倉をつかまえんばかりの勢いでどなった。
小園にすれば、帝国海軍が存在している8月14日に海軍指導部は降伏の罪をおかしたことになる。海軍刑法には、
「敵に降伏を決意し、又は降伏を為したるものは死刑に処す。敵前に於いては銃殺に処す」
とあるのに、「降伏せよ」との命令を海軍の指導者がくだそうとしている。このことは、海軍刑法に違反する行為であり、無効であり、服従してはならないものと小園は判断した。
果たして、8月15日正午の「玉音放送」で天皇は明確に降伏を述べなかった。
「万世の為に太平を開かんと欲す」
小園は天皇のこの言葉に対し、信頼する将校を集め絶叫した。
「陛下のこのおことばにはまったく同感だ。おれの心は天皇のお心とまったく同じだ。だからこそおれは、戦局を挽回して、日本の万世のために太平を開かんと欲しておるのだ!」
------------------------------------------
国民諸君に告ぐ
赤魔の巧妙なる謀略に翻弄され必勝の信念を失いたる重臣閣僚共が上聖明を覆い奉り下国民を欺瞞愚弄し遂に千古未曾有の詔勅を拝するに至れり
赤魔の謀略ここに至りて極まれり
日本の天皇は絶対の御方なり
絶対に降伏なし
天皇の軍人には絶対に降伏なし
我等航空隊の者は絶対に必勝の確信あり
ポツダム声明を承服するときは天皇を御滅し奉ることなる故にポツダム声明の履行の命令に服することは大逆無道の大不忠を犯すことなり
外国の軍隊の神州に進駐しポツダム声明を履行するときは戦争を継続するより何百何千倍の苦痛を受くること火を見るより明らかなり 今や天孫御降臨以来未曾有の大禊祓(けいふつ)は行はるべし
かくして国内必勝の体勢は確実に整備さるべし 今こそ真に一億総決起の秋なり
帝国海軍航空隊司令
------------------------------------------
玉音放送から30分後、小園は、全海軍に向けて徹底抗戦の電報を打電したが、どこからも返電はこなかった。
15日の夜、小園は、上記の檄文をつくり、厚木航空隊のパイロットによって東京一円に撒いたが、国民の誰一人も、聖戦完遂の行動をとるものはいなかった。
軍司令部は3日かけて小園を説得したが、小園は頑として応じず、8月21日、海軍当局は、小園を精神異常者として精神病院に送り込んだ。残された士官もつぎつぎと逮捕された。こうして彼らの”反乱”は終わった。
小園は海軍はえぬきの名パイロットであった。戦術にも卓越したアイディアの持ち主であり、「月光」に斜め機銃を据え付け、夜間、B29の下腹から攻撃する戦法は効果をあげたものだ。
昭和20年になると、厚木航空隊は、第3航空艦隊の特攻隊基地ともなった。小園は涙をながして若い彼らを見送ったのである。ちなみに彼は、戦艦大和沖縄特攻にも反対している。そうした彼にとって、戦況が悪化して自らの生存が危うくなると、簡単に継戦を投げ出してしまう海軍指導者の態度ががまんならなかった。若者には死ねと命令し、自らはおめおめと生きながらえようとする海軍指導者が許せなかったのだ!
皮肉にも、小園は海軍刑法にもとづいて軍事裁判を受け、20年8月、党与抗命罪で終身刑の判決を受けた。しかし、27年に熊本刑務所を釈放され、35年郷里の鹿児島で心筋梗塞にて死去された。58歳であった。
それにしても、あれほど「聖戦」だ「大東亜共栄圏」だと国民を鼓舞して戦争に突入した日本がこうもあっさり降伏したことは、この俺にも納得いかない事だ。
それもこれも、昭和天皇の命乞いの犠牲でしかなかったとしか思えないのだが。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-atugi.htm
『追記』小園部隊に徹底抗戦の檄文を撒いたのが陸軍の「飛燕」だったという話↓
http://www.city.yamato.kanagawa.jp/koucho/virtual/kioku/kioku26.htm
1945(昭和20)年8月14日、「玉音放送」の前日に、厚木航空司令の小園大佐は、横須賀鎮守府長官戸塚中将の胸倉をつかまえんばかりの勢いでどなった。
小園にすれば、帝国海軍が存在している8月14日に海軍指導部は降伏の罪をおかしたことになる。海軍刑法には、
「敵に降伏を決意し、又は降伏を為したるものは死刑に処す。敵前に於いては銃殺に処す」
とあるのに、「降伏せよ」との命令を海軍の指導者がくだそうとしている。このことは、海軍刑法に違反する行為であり、無効であり、服従してはならないものと小園は判断した。
果たして、8月15日正午の「玉音放送」で天皇は明確に降伏を述べなかった。
「万世の為に太平を開かんと欲す」
小園は天皇のこの言葉に対し、信頼する将校を集め絶叫した。
「陛下のこのおことばにはまったく同感だ。おれの心は天皇のお心とまったく同じだ。だからこそおれは、戦局を挽回して、日本の万世のために太平を開かんと欲しておるのだ!」
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国民諸君に告ぐ
赤魔の巧妙なる謀略に翻弄され必勝の信念を失いたる重臣閣僚共が上聖明を覆い奉り下国民を欺瞞愚弄し遂に千古未曾有の詔勅を拝するに至れり
赤魔の謀略ここに至りて極まれり
日本の天皇は絶対の御方なり
絶対に降伏なし
天皇の軍人には絶対に降伏なし
我等航空隊の者は絶対に必勝の確信あり
ポツダム声明を承服するときは天皇を御滅し奉ることなる故にポツダム声明の履行の命令に服することは大逆無道の大不忠を犯すことなり
外国の軍隊の神州に進駐しポツダム声明を履行するときは戦争を継続するより何百何千倍の苦痛を受くること火を見るより明らかなり 今や天孫御降臨以来未曾有の大禊祓(けいふつ)は行はるべし
かくして国内必勝の体勢は確実に整備さるべし 今こそ真に一億総決起の秋なり
帝国海軍航空隊司令
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玉音放送から30分後、小園は、全海軍に向けて徹底抗戦の電報を打電したが、どこからも返電はこなかった。
15日の夜、小園は、上記の檄文をつくり、厚木航空隊のパイロットによって東京一円に撒いたが、国民の誰一人も、聖戦完遂の行動をとるものはいなかった。
軍司令部は3日かけて小園を説得したが、小園は頑として応じず、8月21日、海軍当局は、小園を精神異常者として精神病院に送り込んだ。残された士官もつぎつぎと逮捕された。こうして彼らの”反乱”は終わった。
小園は海軍はえぬきの名パイロットであった。戦術にも卓越したアイディアの持ち主であり、「月光」に斜め機銃を据え付け、夜間、B29の下腹から攻撃する戦法は効果をあげたものだ。
昭和20年になると、厚木航空隊は、第3航空艦隊の特攻隊基地ともなった。小園は涙をながして若い彼らを見送ったのである。ちなみに彼は、戦艦大和沖縄特攻にも反対している。そうした彼にとって、戦況が悪化して自らの生存が危うくなると、簡単に継戦を投げ出してしまう海軍指導者の態度ががまんならなかった。若者には死ねと命令し、自らはおめおめと生きながらえようとする海軍指導者が許せなかったのだ!
皮肉にも、小園は海軍刑法にもとづいて軍事裁判を受け、20年8月、党与抗命罪で終身刑の判決を受けた。しかし、27年に熊本刑務所を釈放され、35年郷里の鹿児島で心筋梗塞にて死去された。58歳であった。
それにしても、あれほど「聖戦」だ「大東亜共栄圏」だと国民を鼓舞して戦争に突入した日本がこうもあっさり降伏したことは、この俺にも納得いかない事だ。
それもこれも、昭和天皇の命乞いの犠牲でしかなかったとしか思えないのだが。
http://www.asahi-net.or.jp/~un3k-mn/0815-atugi.htm
『追記』小園部隊に徹底抗戦の檄文を撒いたのが陸軍の「飛燕」だったという話↓
http://www.city.yamato.kanagawa.jp/koucho/virtual/kioku/kioku26.htm
2004年08月05日
海軍兵学校 井上成美校長
米内光政、山本五十六、井上成美は海軍のリベラル・トリオと称されていた。特に井上は、日独伊三国同盟にも猛反対している。
「大東亜共栄圏」を主張するアホにとって、排除せねばならない「自由主義者」だったのだ。
井上は海軍中将であったが、 [珊瑚海海戦]:http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-3sango.htm のとき「消極戦略」をとり、A級戦犯昭和天皇に「井上は学者だ」と不興を買い、海軍兵学校の校長に飛ばされたそうだ。
井上中将は艦隊決戦よりも航空決戦に力を入れていた。海兵の教科書の裏表紙には「本書ヲ以ッテ水雷術ヲ習得スヘシ 海軍兵学校長 海軍中将 井上成美」と記載されていた。
井上は国粋主義者を嫌い、海兵学校から国粋主義者の平泉澄学派の歴史の教授を排除した。また、5・15事件以降のファシズムを嫌い、指導教官には「陸士出身者と付き合うな」と指導していたようだ。また、「大将といっても、一等大将もあれば、三等大将もある。国を毒した人物もいる」といって、兵学校講堂に掲げられていた歴代海軍大将の額を全て下ろさせた。
井上は精神性を廃し、合理性を尊ぶ軍人であった。晩年、軍神・東郷元帥について聞かれ「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と返答している。まさに、合理主義者・井上の面目躍如たる一言である。
海軍兵学校最後の卒業生、信太正道がこう書いている。
『娑婆では英語がほとんど死滅していたのに、海兵では、たくさんの英語が残っていました。例えば、雑巾をインサイドマッチ、桶をオスタップと言っていました。覚えるのに一苦労しました。また結構、英語の授業がありました。週に3時間以上あったのでしょうか。その英語の教科書は軍事学でもなければ、歴史書でもありません。なんと、探偵モノのような長編小説だったと記憶しています。
のちに私が日本航空を定年退職した後、海兵の安彦専一教授の訪問を受け、二人で三浦半島の荒崎にある井上校長の遺宅を訪問しました。相模湾を一望できる切り立った断崖に建った質素な平屋です。安彦教授は科学が専門で、井上校長の中学の後輩でした。井上校長は、敗戦後、完全に世を捨て、付近の学童にギターを弾きながら英語を教えました。近所の農民や漁民は野菜や魚等の食料を差し入れしたようです。人里離れた集落の村人にとって、井上校長は誇りであったことをひしひしと感じました。帰りに、英語の教え子で遺宅を管理している隣人が、安彦教授と私に井上校長が亡くなるころ使ったカイロをくれました』(『最後の特攻隊員』より)
しみじみと泣ける話である。
「大東亜共栄圏」を主張するアホにとって、排除せねばならない「自由主義者」だったのだ。
井上は海軍中将であったが、 [珊瑚海海戦]:http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-3sango.htm のとき「消極戦略」をとり、A級戦犯昭和天皇に「井上は学者だ」と不興を買い、海軍兵学校の校長に飛ばされたそうだ。
井上中将は艦隊決戦よりも航空決戦に力を入れていた。海兵の教科書の裏表紙には「本書ヲ以ッテ水雷術ヲ習得スヘシ 海軍兵学校長 海軍中将 井上成美」と記載されていた。
井上は国粋主義者を嫌い、海兵学校から国粋主義者の平泉澄学派の歴史の教授を排除した。また、5・15事件以降のファシズムを嫌い、指導教官には「陸士出身者と付き合うな」と指導していたようだ。また、「大将といっても、一等大将もあれば、三等大将もある。国を毒した人物もいる」といって、兵学校講堂に掲げられていた歴代海軍大将の額を全て下ろさせた。
井上は精神性を廃し、合理性を尊ぶ軍人であった。晩年、軍神・東郷元帥について聞かれ「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と返答している。まさに、合理主義者・井上の面目躍如たる一言である。
海軍兵学校最後の卒業生、信太正道がこう書いている。
『娑婆では英語がほとんど死滅していたのに、海兵では、たくさんの英語が残っていました。例えば、雑巾をインサイドマッチ、桶をオスタップと言っていました。覚えるのに一苦労しました。また結構、英語の授業がありました。週に3時間以上あったのでしょうか。その英語の教科書は軍事学でもなければ、歴史書でもありません。なんと、探偵モノのような長編小説だったと記憶しています。
のちに私が日本航空を定年退職した後、海兵の安彦専一教授の訪問を受け、二人で三浦半島の荒崎にある井上校長の遺宅を訪問しました。相模湾を一望できる切り立った断崖に建った質素な平屋です。安彦教授は科学が専門で、井上校長の中学の後輩でした。井上校長は、敗戦後、完全に世を捨て、付近の学童にギターを弾きながら英語を教えました。近所の農民や漁民は野菜や魚等の食料を差し入れしたようです。人里離れた集落の村人にとって、井上校長は誇りであったことをひしひしと感じました。帰りに、英語の教え子で遺宅を管理している隣人が、安彦教授と私に井上校長が亡くなるころ使ったカイロをくれました』(『最後の特攻隊員』より)
しみじみと泣ける話である。
2004年08月04日
戦争屋にだまされない厭戦庶民の会

この会の会長、信太正道氏の経歴が凄い。
元特攻隊員「厭戦庶民の会」代表 信太正道氏
信太正道氏(74)は札幌出身。海軍兵学校最後の卒業生であり、 北海道千歳にて特攻隊に指名されるも、 前線基地への移動中に終戦を迎えた。 戦後、 京都大学を卒業し海上保安庁にて朝鮮戦争時、機雷処理の極秘任務で従軍、 海上警備隊、 航空自衛隊を経て日本航空に勤務。 創設期の自衛隊では軍人の本音にふれる。 退職後は池子米軍住宅建設反対運動やゴラン高原PKF違憲訴訟など平和運動に専念。 著書 『最後の特攻隊員二度目の 「遺書」』 (高文研) や講演を通じ、 自身の経験を伝え、 「戦争屋にとって一番こわいのは厭戦気分」 だからと2000(平成12)年、 「厭戦庶民の会」 を結成した。
「小林よしのり」より「特攻隊」の生き証人の説得力は素晴らしい。
http://www1.odn.ne.jp/ensenshomin/index.html
http://www.jcp.or.jp/activ/activ48-yuuji2/0222.html
http://www.jlp.net/interview/970725a.html
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Asagao/7440/kang-26.html
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2004年07月25日
日本国民に檄す

日本国民よ!
刻下の祖国日本を直視せよ
政治、外交、経済、教育、思想、軍事!
何処に皇国日本の姿ありや
政権、党利に盲いたる政党と之に結託した民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧制日本に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育。腐敗せる軍部と、悪化せる思想と、塗炭に苦しむ農民、労働者階級と而して群拠する口舌の徒と!
日本は今や斯くの如き錯綜せる堕落の淵に既に死なんとしている。
革新の時機!今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ
国民諸君よ
武器を執って!今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外の何物もない
国民よ!天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全国民よ!
祖国日本を守れ
而して
陛下聖明の下、建国の精神に帰り、国民自治の大精神に徹して人材を登用し、
明らかな維新日本を建設せよ
民衆よ!
この建設を念願しつつ先づ破壊だ!凡ての現存する醜悪な制度をぶち壊せ!
偉大なる建設の前には徹底的な破壊を要す
吾等は日本の現状を哭して、赤手、世に魁けて諸君と共に昭和維新の炬火を点ぜんとするもの
素より現存する右傾左傾、何れの団体にも属せぬ
日本の興亡は吾等(国民前衛隊)決行の成否に非ずして、吾等の精神を持して続起する国民諸軍の実行力如
何に懸る
起て!
起って真の日本を建設せよ!
昭和7年5月15日
陸海軍青年将校 農民同士
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5・15事件当日の朝、東京駅近くの旅館「竜名館」にて海軍中尉の三上卓が30分もかけずに書き上げた、見事な檄文である。
当時の日本の政治、社会情勢は腐敗しきっていた。選挙のたびに政友会には三井から、民政党には三菱から500万近い資金がわたされ、各候補者は1万円近い金を買収資金として使った。当然のことながら、当選した議員は財閥や特権階級の代弁者でしかなかったのである。議員の汚職は公然と行われており、検挙されても政治力によって証拠不十分の無罪判決を受けるのが常であった。
財閥が肥える一方で、物価は上昇。労働者の実質賃金は低下、中小企業の倒産は相次ぎ、昭和6年の推定失業者は300万人といわれた。非合法のストライキは戦前最高の件数を記録している。
農村はどん底の状態にあった。農作物をつくればつくるだけ借金はふえた。1石の米をつくるのに30円を要するのだが、売値は18円にしかならない。
農村の子供は栄養失調になり、東北地方からは遊郭に売り飛ばされる娘が続出。しかも役場が手配するというありさま。飢えのため、赤ん坊は間引きが当たり前であったのだ!
この事件による逮捕者の死刑はなかった、しかし軍部は彼らを利用し、政党を弾劾し、国民の期待を軍に向けさせることに成功した。これ以降、政党政治は崩壊したのだ。結果として、昭和維新は腐敗した軍部に利用されただけとなり、成し得なかったのである。
しかし、今の視点で、この檄文を読むと、昭和7年の状況と今の日本の惨憺たる現状は全く同じと考えるがどうだろうか?
国民を欺き、詭弁を展開して権力にしがみつくコイズミ。一方で、賃金は低下。長期低迷の不況の中、自殺する国民が年間3万人を突破している暗い社会情勢。
国民よ!天皇の御名に於て君側の奸を屠れ!
国民の敵たる既成政党と財閥を殺せ!
横暴極まる官憲を膺懲せよ!
奸賊、特権階級を抹殺せよ!
農民よ、労働者よ、全国民よ!
祖国日本を守れ
との彼らの主張は、今でも通用するぐらい「絶望的な日本」なのではないか?
引用 保阪正康著「昭和史の謎」より
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